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キューバの日本との交流

日本人移民のゆかりの場所

支倉六右衛門常長の記念碑

1614年、キューバに初めて足を踏み入れた日本人支倉常長の像。着物姿のその像はハバナから遠く離れた仙台に思いを馳せているかのようだ。
ハバナ、旧市街プエルト通り。

ハバナとサンティアコ・デ・クーバの港

19世紀に日本人移民の乗った船が入港した主要港。

ハバナ国立植物園

園内には、1970年に日本から寄贈された日本庭園がある。1989年に落成式が行われた。同国内で異国情緒のある場所として注目される。

カマグエィ、サンタ・クララ、シエツフエゴコ、トリ二ダーの街

1914年、67人の日本人移民が定住していた。カマグエイの中心ビオレタには、日本式のお風呂が保存されている。シエンフエゴスのカンポカルメリーナでは、初めて日本生産者協会が作られた。

イスラ・デラ・フベントウ(旧名称:イスラ・デ・ピノス)

日本人移民の多くが定住し農業に従事した。サンタバルバラには、「お盆」や「天皇誕生日」を祝うという伝統が今も残る。

イスラ・デラ・フベットウの旧刑務所跡

第二次世界大戦中、何十人もの日本人が収容された。

シエゴ・デ・アビラのイスラ・デ・トウリグアノ

日本人、サブロー・オオエがその乾燥した土地で野菜作りに取り組んだ場所のひとつである。

カーヨ・ラルゴ・デル・ユール

モサク・パラダが漁業に従事した海。

竹内憲治

園芸家、広島県生口島(いくちじま)出身(1902-1977)
1931年、昭和6年1月14日、29歳で、キューバ首都ハバナへ。
運命のいたずらで一文無しに。
その後、大富豪に雇われ、庭師として成功。
太平洋戦争勃発で、再び奈落の底へ。その後、幾多の困難を乗り越え、キューバを愛し、花を愛し、ひたすら研究者として道を歩む。
1959年に起きたキューバ革命によるアメリカとの国交断絶、経済を封鎖に遭遇したが、彼の研究への情熱は衰えず、新種のユリやランの花の栽培に成功していった。
国の指導者からも国民からも大きな信頼を受けるまでになっていった。
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