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キューバの竹内憲治

竹内憲治

2016年2月7日日本テレビ系列で放映されたドキュメンタリー番組「キューバが愛した日本人」(読売テレビ制作)から要約

園芸家、広島県生口島(いくちじま)出身(1902-1977)
1931年、昭和6年1月14日、29歳、
キューバへ降り立ったのは、花の研究でアメリカへ渡る途中のこと、熱帯植物を見ようと立ち寄った。そこで、彼の運命を変える、まさかの出来事が起きる。

彼の自伝「花と運命」によると、生魚を食べて腹をこわす、食中毒を起こす、病院にいる間に風邪までこじらせて退院するころには1か月の月日が経っていた。異国の地で病気になることがどんなに恐ろしいことか、治療費で持ち金が底をつき、一文無しになってしまった。
日本を出る前に契約していた出資者に送金を依頼していたが、何の音沙汰もない。彼はまさに絶望のどん底。ある時は公園で夜を明かす時もあった。
竹内は新聞の広告欄で職を探し、金持ちの家に住み込み報酬なしで働いた。
その後、庭を手入れをすることが彼の仕事となった。こうしてキューバでの新たな人生は一文無しから始まっていった。

庭師として生計を立てていた竹内に、1933年31歳の時、思わぬ仕事が飛び込んできた。
当時アメリカ一国の経済を動かすといわれた大富豪デュポンの依頼である。

ヴァラデロVaraderoは、1930年ころから。アメリカの大富豪らによって別荘が建設されたことでリゾート地に発展していった。その中に、イレーネ・デュポン(1876-1963)の別荘があった。
竹内への依頼は、この別荘を世界一の別荘に仕上げてくれというものであった。今まで手掛けてきた花の仕事とはスケールが違う。そこは庭というよりは、もはや自然公園、引き受けた以上は全力を挙げなければならば、園芸家として、また一人の日本人として恥というものになる。
そして、見事に仕上げ、サンゴ礁に花を咲かせて見せるなどして、デュポンは私の目に狂いはなかったと竹内を世界一のフローリストと賞された。
竹内はデュポンの下で働き、自家用車と月給$300を手にした。日本で公務員の月給が$75ほどの時代だ。100倍というとんでもないものであった。

1930年アメリカの大富豪デュポンが資材を投じて建設された別荘は、そのまま残されてホテルになっている。
大理石をふんだんに使い、彫刻で飾られたマホガニーの柱や天井は、ため息が出るほどの美しさである。この別荘が建築されたことがきっかけでヴァラデロに下水道や電気の整備されたのであった。現在はリゾートホテルとして営業している。
この別荘の庭は、当時の金額で約140万ドル、国交正常化され、訪れるアメリカ人が3倍になった。
現在は竹内の庭園は残っていないが、ヴァラデロは大いに発展していった。
竹内がここにいたのは1941年ころまでだった。

1941年12月8日、真珠湾襲撃、太平洋戦争勃発、12月10日、アメリカの統治下にあったキューバも日本に宣戦布告。
そして、アメリカに居た日本人も強制収容されたように、当日キューバに居た日本人男性たちはキューバ本土の南に位置するピノス島に送られた。
竹内もピノス島の刑務所に送られた。

ピノス島は現在イスラ・デ・ラ・フベントゥIsla de la Juventud(青年の島)となっている。ここにはかつてカストロの前大統領も収監された巨大な
刑務所があった。
現在は、プレンディオン・モデロ国立記念館となっている。 1920年代に建てられたプレシディオ・モデロ監獄、竹内は4号棟に収監されていた。
現在、刑務所としてはすでに閉鎖されているが、パノプティゴン型監獄建築を見学できる。
革命前のカストロ前議長が政治犯としてここに収監されていたため、この館内に彼の写真が飾られている。
日本人は約350人収容されていた。戦時中は、ドイツ人もイタリア人もここに収容されていた。彼らは制限付きながら自由な生活をしていたが日本人はある種の差別を受けていたという。日本人の面会は監視付き行われ、日本語を話すことも許されなかった。だから家族とともにお互いに気持ちを目と目で表現していたという。
真珠湾攻撃した日本に対して、アメリカが厳しい処置をとったからである。
現在は日本人が収容されていた建物は廃墟となっており、壁は壊されている。

1899-1930年ころまでの間に約1000人の日本人がキューバに渡った。農業やサトウキビ農園に従事していた。適性外国人となった当時の日本人たちがキューバ日本人連絡会を作った。会長はフランシスコ・ミヤサカさん(72)。父が監獄に入れられ、母と一緒に残されてしまった。残された母と子に対し、キューバ人は親切にも助けの手を差し延べてくれたという。
日本人が開放されたのは、1946年1月であった。竹内はデュポン家に預けてあった約$5000を弁護士に使い込まれてしまった。それでも竹内はキューバに残り、花作りに没頭する。
ワハイで農場を営んでいた竹内には、当時
息子のようにかわいがっていた愛弟子がいた。その子孫が今でも花農業を営んでいる。 竹内が愛弟子のホセ・イートに引き継いだ花の農園を、今その義理の息子が引き継いでいる。戦後、竹内は農場を経営しながらチューリップや水仙など、それまでキューバにはなかった花を次々と咲かせている。
しかし、研究を続けて19年、どうしても咲かせることができない悲願の花があった。
貧しい人でも、買える「大衆の花」を作らねば、キューバの冠婚葬祭には白い花が使われる。当時のキューバにはその花すら買えない貧しい人であふれていた。
アメリカの支配下で利益を搾り取られ、乏しい生活を送る人々にも買える花を作りたい竹内はキューバの土に合ったユリの花を開発に挑んでいた。
そして、日本を離れて19年が経った頃、1950年に遂にキューバの土が私の期待に応えてくれた。ユリの花が立派に花を咲かせたのだった。
竹内はこの花の名前を早くから決めていた。「ホセ・マルティ」キューバ建国の父と仰がれる英雄の名前をこの花の名前にした。
ホセ・マルティはその後キューバ国内の専門家からも賞賛を浴び、現在も多くの人々に愛されているという。今は竹内の住んでいたところでは、広く栽培されている。

ハバナから西へ約75㎞にソロア Soroaという村がある。
そこのソロア蘭園 Orchiderio Soroaに、竹内が使っていた研究施設が今でも残っている。
新種のユリ「ホセマルティ」の栽培に成功した竹内は、ここで多くのランの栽培にも成功し、あるインタビューで、キューバに咲く花の6割は自分が開発したものだと答えている。
このソロア蘭園には、キューバ原生種など約700種のランを栽培している。
スペインの資本家トマス・カマチョ氏によって設立されたものである。「黒いラン」というキューバ固有種もある。
竹内はここでラン園全体を見ていた。当時オーナーのカマチョが買い付けてきたランはだめになってしまったり、花を咲かせることはできなかった。
竹内の研究のおかげで、キューバでのいろいろな種類のランを繰り返し開発させることができるようになった。

竹内が花の研究に没頭していたころ、2人の青年が革命家としてその資質を養っていた1959年に起きたキューバ革命。
フィデル・カストロが起こしたキューバ革命は当時、事実上アメリカの支配下にあったキューバから貧困をなくすための武装蜂起であった。
革命の開始はチェ・ゲバラとともにゲリラ戦を戦う中で革命軍は次第に国民の支持を広げ、1959年1月、アメリカの後ろ盾を得ていたバチスタ政権を倒し、革命を成功させる。その後、アメリカはキューバ経済を封鎖、キューバとアメリカは国交断絶し、世界を核の恐怖に陥れたキューバ危機にまで発展していった。
以来55年間(2015年まで)国交断絶をしていた。

竹内、1961年58歳、花の研究に没頭していた竹内にとってもキューバ革命は大きな転機となっていた。
新たな政府を作り始めた革命政府は「ホセ・マルティ」の花を咲かせ研究者として専門家も一目置いていた竹内を科学庁の技師に抜擢、ある依頼を持ち込んでいた。
それは国立公園を作るという要請だった。
しかし、竹内はここで自らの花の研究を続けていたのに、自らの人生を否定するような発言をする。日本では花より団子ということわざがあるが、それは今のキューバにも言える。国立公園もいいが、当分は国民の食料を豊かにすることの方が、今のキューバには大事なのだと、国民の空腹を満たすことだと主張し、農業の道を推し進めたのだった。
そのころ、工業大臣としてキューバの近代工業化を目指していたチェ・ゲバラとも対峙することになった。まずは自給自足をと説くがゲバラを耳を貸さなかった。

1964年60歳、竹内に残された人生でキューバでやってみたいことがあった。
そして自ら若者を集め、畑を作り始め、農村を作ることを始めた。
貧しい若者も自らの土地を与えられ、希望を持って働くことができれば、自立への道が開けるはずだと。しかし、買いたくはそう簡単ではなかった。
そんな1964年のある日、カストロ議長が彼の前に訪れた。感謝の言葉を贈った。
その場所は著書「花と革命」に出てくる。シエラ・デル・ロザリオSierra del Rosarioという村。ロザリオはカストロ議長の手でその後開発される。1982年には人と自然の共生を目指すユネスコのエコパークに登録、現在はラ・テラサという。
環境保護地区となっている。周辺で収穫する野菜・果物は美味で評判とのことだ。

晩年、亡くなるまで竹内はワハイの地に住んでいた。そして、1977年の8月30日に息を引き取った。ここワハイには、1964年に日本人たちによって建てられた、キューバで亡くなった人のための慰霊塔が建つ。そして、竹内の墓もここに作られた。
晩年、自らの歩みを残したことを筆を執った。その記録を纏めた自伝「花と革命」が1977年11月に出版された。この本にはカストロ前議長が直筆の賛辞がつづられている。彼は「素朴さ」「繊細さ」「勤勉さ」といった日本の最も優れた美徳を兼ね備え、そのすべてをキューバにささげた。私は氏の人生の美しさの前に謹んで首を垂れ、今は亡き友の追憶に万歳を馳せながら感謝の花束としてこの文章をささげる。1977年11月9日フィデル・カストロ、とある。












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