概要 標高1260m・人口約7万人 ネヴシェヒルはカッパドキア地方のゲートウエイとなってはいるが、カッパドキアらしい奇岩などの景色はどこにもない。 しかし、宿泊施設は比較的多いため、ツアーのホテルなどはここをカッパドキアに滞在地としている。 町の一番高い丘の上にはセルジュクトルコ時代の城がある。 18世紀初期までムスカラと呼ばれたアナトリアの小さな村だったが、ネヴシュヒルの運命は、この地に生まれ、土地の人々と故郷を生産忘れることのなかったイプラヒム・パシヤと共に激変することとなった。 イスタンプールの宮殿で菓子職人の見習いとして働いていたイプラヒム・パシヤは、その真面目さと賢さで頭角を現し、オスマン帝国の最高位にまで出世する。 スルタン・アフメット3世の治世下で最初は相談役、次にパシヤ(絵督)となり、皇女ファトマ・スルタンと結婚すると宰相の地位を得ることとなった。 パシヤの活性化政策をきっかけに拡大を始めた彼は、故郷に戻り、新しい町の建設に力を注ぐ。そして、「新しい町」を意味するネヴシュヒルと改名された。 繊細な神経をもつ芸術愛好家イプラヒム・パシヤは、自らの資金でモスク、神学校、ハン(商館)、図書館、ハマムを造らせる一方、近郊から新天地を求めてやって来た人々には税の控除を認めて人口を増大させたので町は大いに活気づいた。 国有地を一般に払い下げ、郊外には桑畑を設けて、一帯への養蚕業導入にも力を注いだ。 こうして交易の要所への一歩を踏み出したネヴシュヒルの人口は間もなく17,000人に達した。彼の没した1730年、建設活動は一旦停滞したとは言うものの、町の重要性はオスマン帝国、トルコ共和国を通して何ら変わることなく、1954年には同名で呼称される県の県庁所在地に指定されている。セルジューク、オスマン帝国期の建造物で最も古いものは、イプラヒム・パシヤが修復させた町を見渡すセルジューク時代の城塞で、二つの門と塔とで美しい風情をみせている。 18世紀に建設されたイプラヒム・パシヤ学問所はモスク、修道院、図書館、ハマムなどを包含する総合施設で、最も注目したい建物のひとつと言える。この施設の中のクルシュンル・ジャーミの中庭にある沐浴用の噴水には当時の銘文が残されている。 アクセス イスタンブール、アンカラからは直通バスが運行されている。 ネヴシェヒルからカッパドキアのほかの村や町には頻繁に発着している。 同じバスターミナル(オトガル)からミニバスとドルムシュの両方が発着している。 週末には運行本数が半減する。 見どころ ネヴシェヒル博物館Nevsehir Museum (ネヴシェヒル・ミュゼシNevvsehir Muzesi) 町の中心から1kmにある。 フリギ王国ア、ヒッタイト王国時代の壷、道具や、ローマ、ビザンチン帝国、オスマン帝国時代の出土品などが展示されている。 月曜休み。 ネヴシェヒル周辺 ナル ネヴシェヒルから北へ2kmにある。 丘の上にオスマン朝時代の墓地がある。 途中には洞窟を利用している住居が点在している。 ネヴシェヒルからドルムシュが出ている。 アチュックサライ ネヴシェヒルから北へ約19km。 きのこ岩を使って建てられた修道院がある。6〜7世紀のもので、教会や食堂、寝室や台所などがあり、近くには女子修道院もあった。 ギュルシェヒルGulsehir ネヴシェヒルの北19kmにある人口9000人の小さな町 詳しくは[[こちら>/トルコ・ギュルシェヒル]] ハジュベクタシュ Hactbektas ネヴシェヒルから北へ46km、ギュルシェヒルから27kmに位置し、カッパドキアの北西端になる。 詳しくは[[こちら>/トルコ・ハジュベクタシュ]] |