チャタルホユック Catal Hoyuk 概要 チャタルホユック新石器時代遺跡として、2012年、世界文化遺産に登録された。 チャタルホユックCatal Hoyukは、コンヤの南方アナトリア高原に位置する遺跡で、今から9000年前の新石器時代に形成された。 時代により3500〜8000人程度の人口があったと考えられており、四方体の家が密集して建てられ、建物と建物の間に「通り」は全くない集落であった。 人々は家の上を通り、家の中には梯子を使って降りていた。一軒あたり5〜10人程度が住んでいたと考えられている。 家の中にはメインホールがあり、居間、台所、エ作室、寝室として多目的に使われていた。他にサイドルームがあり、倉庫や貯蔵庫として使われていた。 室内は様々な装飾で美しく飾られ、死者は床下に直接埋められていた。 チャタルホユックでは1400年程度の居住が確認されているが、人口増加などの理由で放棄され、住民は別の地へ引っ越して行ったものだと考えられている。 1950〜60年代にJames Mellaartなどにより第一次発掘が行われたが、その時の発掘品は現在、アンカラのアナトリア文明博物館に展示されている。 その後、発掘は一旦中断していたが、1993年からIan Hodder教授により再開され、現在も続いている。 第二次発掘からなる発掘物は、現在、コンヤ考古学博物館に展示されている。 チャタルホユックはチャタル=分かれた(分岐した)+ホユック=丘状の古墳の意味で、遺跡は二つの丘に分かれている。 東の遺跡はBC7400年新石器時代のものだが、西の遺跡はBC6000年銅器時代のもの。そのため、西の遺跡は東の町が人口増加により住み切れなくなった後形成されたものと考えられている。 チャタルホユックでは穀物が栽培され、羊やヤギ等の家畜が飼育されていた。各家庭からは食物を保存したり調理したりするのに使われた土器、石器、骨のエ具、動物の骨などが見つかっており、調理が室内で行われていたことがわかっている。 これだけの人口を持つ町でありながら、どの家庭も同じような作りになっていることから、貧富の差は殆どなく、支配階級もない自給自足の生活を送っていたものと考えられている。 チャタルホユックの土の家の寿命は45−90年ほどのため、古くなると建て直されていた。中には450回以上建て直された家も見つかっている。建て直しの度に壁や床を漆喰で塗りなおしが行われていた。家の外壁は隣の家の外壁と接していたので、建て直しも容易であった。 町が放棄された後、家の天井が崩れ、部屋は土砂に埋もれていたため、保存状態は非常に良好なものとなっている。また、古い家の上に新しい家を建てていたため、6件積み重なっている家なども発掘されている。 チャタルホユックの価値の一つに美しいアートがある。芸術性の高い壁絵、レリーフ、諸設備、彫刻、幾何学的なパターン、土印、小像(土偶)などが数多く発掘されている。 野生の雄牛、雄羊、鹿、ハゲワシ、熊、ヒョウなどの動物が多く利用されている。動物と人間が一緒に描かれている壁画も多く残っており、当時の生活を垣間見ることができる。多くの人型や動物の小像も見つかっている。特に地母神の像は有名で、宗教的な物だと考えられている。 もっとも特徴的な装飾は雄牛の頭である。雄牛の頭は石灰に塗りこみ、壁や椅子、枕木などに設置されている。 死者は生活空間の床下に埋葬され、一軒につき1〜60体もの人骨が見つかっているが、チャタルホユックの人たちが、なぜ遺体を自分たちの眠るメインホールの下に埋葬したのかはわかっていない。人骨からチャタルホユック住民の栄養状態が新石器時代の他の国の人々に比べ良好だったことがわかっている。 また、2004年の発掘で、漆喰で装飾された男性の頭蓋骨を抱きしめた状態で埋葬された女性人骨が見つかったため、骨と死後の世界観に何らかの関係があったものと考えられている。 東より新しい西の遺跡では東の遺跡の特徴をかなり残すとともに明確な違いも見られる。もっとも特徴的なのは幾何学模様の壁画やレリーフがなくなり、東では見つかっていない装飾された陶器が大量に見つかっていることである。遺体を床下に埋める習慣もなくなり、宗教的な儀式の影が家庭の装飾から見られなくなっている。このことからこの時期、自給自足から集団労働に移行したことが推察される。 チャタルホユックは、毎日08:00〜17:00の間オープンしている。 遺跡に付属する博物館はまだないが、発掘品の模型などが展示された小さな展示室(資料館)があり、模型には解説も付いている。 また、1軒、当時の家を復元したものがあり、中に入ることができる。 http://www.catalvovuk.com |
(参考資料:Bon Trip) |